6.時代とともに遷り変わる建物
時代とともに遷り変わる建物
発掘調査で確認された建物は、全てが同時期に建っていたものでありません。調査結果の分析から、4時期に区分されることが分かりました。本遺跡を「河内郡衙[かわちぐんが]」とする説では、I・II期を「河内郡衙本院」と捉え、政庁の消滅するIII期は本院の出先機関である「河内郡衙正倉別院」へ変容したと捉えることができます。しかしながら、本遺跡の性格についてはいまだ解明されていないため、現在も研究が続けられています。
I期(7世紀後葉)・・・創始期
官衙が創設された時期です。正倉域・政庁域・北方建物群域という配置計画の下に、役所の建設が始められました。正倉域では比較的大型の建物を中心に、列ごとに建築が進められていきました。また、中央部分には大型の総柱式掘建柱建物も造られます。政庁域では南面庇[なんめんびさし]の正殿[せいでん]と西側の脇殿[わきでん]の2棟という変則的な形で建物が構成されます。北方建物群域においては、本遺跡の建設を担ったと考えられる大型竪穴建物が設置されます。なお、当初より西辺に八脚門が設置されていることから、施設の正門であった可能性が高いと思われます。
- I期遺構配置図
II期(8世紀前葉)・・・充実期
官衙としての発展・充実期です。正倉域での倉庫建設が全域に及び、西側部分では北に正倉範囲が拡張した様子がうかがえます。政庁域においては、正殿が四面庇[しめんびさし]状の建物になるとともに、東西の脇殿が完成し、「コ」の字状の建物配置となります。北方建物群域では、側柱式掘立柱建物が中心となり、半面に庇をつけた建物があらわれます。
- II期遺構配置図
- II期復元イメージ図
III期(8世紀中葉~後葉)・・・変容期
官衙としての形態が大きく変容する時期です。政庁域及び北方建物群が消滅し、官衙の機能が正倉だけに縮小します。この正倉域においても、II期には西側で北に伸びていた正倉範囲が縮小し、新たに作られた東西に走る溝によって区画された長方形になります。さらに中央には、周囲を溝で区画された大型瓦葺建物が建てられます。政庁の廃絶に伴い、西門もその機能を終え、道路に近い南東側の入口施設が主要な入口となりました。
- III期遺構配置図
- III期復元イメージ図
IV期(9世紀前葉)・・・衰退期
正倉としての官衙衰退期です。正倉の規模・形態はIII期を踏襲していますが、中心建物が大型瓦葺建物から、長大な側柱式建物に変わります。初めは東西棟の建物ですが、後に南北棟の建物に変わります。なお、この時期は新たな建物が建築された様子がなく、正倉がどれだけ維持されていたかも不明です。そして、この時期を最後に官衙は廃絶されます。また、この時期になると官衙北側エリアに竪穴建物が建てられるようになり、集落が形成されていたことが考えられます。
- IV期遺構配置図