8.周辺の官衙・寺院遺跡
周辺の官衙・寺院遺跡
下野国府跡[しもつけこくふあと](栃木市田村町)
下野国の国府は、現在の栃木市田村町にあったことが分かっています。昭和51(1976)年から2ヶ年行われた発掘調査では、約900m四方の範囲内に前殿、東西脇殿を配し、中央が広場になっている国庁跡が発見されました。国庁の建物は、8世紀前半から10世紀にかけて4期の変遷があることが分かっています。また、国庁の南側には南門からのびる道路跡(南大路[みなみおおじ])が確認されているほか、国庁の南200mの地点で多数の建物跡が確認されています。
下野国分寺跡・国分尼寺跡[しもつけこくぶんじあと・こくぶんにじあと](下野市国分寺)
天平13(741)年に聖武天皇による「国分寺建立の詔[みことのり]」が出され、律令国家の繁栄と国の栄華の象徴として各国に国分寺および国分尼寺が建てられました。下野国分寺は8世紀中葉に塔・金堂が建てられ、8世紀後半から9世紀前半には主要伽藍[がらん]が完成したと考えられていますが、その後、9世紀後半には伽藍が縮小され、10世紀以降、荒廃・消滅していきます。創建のころの瓦は上神主・茂原官衙遺跡の瓦と同じく水道山瓦窯[すいどうやまがよう]で焼かれたものも含まれています。
下野薬師寺跡[しもつけやくしじあと](下野市薬師寺)
上神主・茂原官衙遺跡から南7.2kmに位置する下野薬師寺跡は、7世紀末に建立されたと考えられています。伽藍配置は塔の北側に「品」字型に堂を配する一塔三堂形式で、大規模な構成であったと考えられています。この時代の寺の多くは、有力豪族が自ら営む「氏寺[うじでら]」でしたが、下野薬師寺は創建当初から国家が強く関与していた可能性が指摘されています。また、僧侶として認められるための受戒の儀式を行える「戒壇[かいだん]」を持つ寺院に定められ、東大寺、筑紫観世音寺とともに「三戒壇」と呼ばれました。瓦の一部は上神主・茂原官衙遺跡の瓦と同じく水道山瓦窯で焼かれたものです。
西下谷田遺跡[にししもやたいせき](宇都宮市茂原町)
西下谷田遺跡は、上神主・茂原官衙遺跡から西へ約800mに位置する遺跡です。上神主・茂原官衙遺跡に先行する官衙遺跡で、郡家の前身である「評家[ひょうが]」の可能性が指摘されています。本遺跡は、古墳時代前期に集落が営まれ、6世紀末から7世紀初頭にかけて円墳が4基築造され墓域となります。7世紀後葉から8世紀初頭にかけて、南側のエリアに東西推定108m×南北約150mの柵列が巡り、その中に長大な掘立柱建物や大型の竪穴建物跡を配する官衙的な施設が設けられます。この施設は、南側の門が棟門から八脚門[はっきゃくもん]に造り変えられることなどから、2時期あることがわかっています。また、施設の周辺には同時期の竪穴住居跡があり、その中には新羅[しらぎ]系の土器を出土する竪穴住居跡もあることから、この施設及び周辺には新羅に関係した人がいたことが想定されています。
多功遺跡[たこういせき](上三川町天神町)
上神主・茂原官衙遺跡から南南西約3.5km、JR石橋駅の東約300mに位置する多功遺跡では、平成7(1995)年まで行われた発掘調査において整然と配置された20棟以上の建物が発見され、遺跡の広範囲から大量の瓦が出土しました。発掘調査の結果から、この遺跡が8世紀前半から10世紀頃にかけて使用された官衙であることが明らかになり、この遺跡を上神主・茂原官衙遺跡の後に使用された「河内郡衙」とする説や「正倉別院」とする説などがあります。瓦は上神主・茂原官衙遺跡の瓦と同じく水道山瓦窯で焼かれたものです。その他の遺跡
古代の河内郡内には「田部[たべ]」「衣川[きぬがわ]」の二つの駅家[うまや]が置かれていたことが知られていますが、その跡はまだ確認されていません。
しかし近年、東山道と推定される道路跡の調査が相次ぎ、そのルートが具体的に検討できる状況になっています。中でも本遺跡の北東約3kmの杉村遺跡・西刑部西原遺跡においては、北東方向に向かって走る道路跡が1kmにわたって確認されました。また本遺跡の南南西約10km付近では、下野市北台遺跡・諏訪山遺跡・三ノ谷遺跡の3地点においても道路跡が確認されています。下野国府・国分寺方面から下野薬師寺に向かうルートはほぼ確認されているものの、下野薬師寺から本遺跡の間にはまだ道路跡の確認例はありません。しかしながら、周辺の状況から多功遺跡周辺を通り、ほぼ南北に結ばれていたものと考えられます。
生産関係の遺跡として水道山瓦窯は、本遺跡の北約13kmに位置し、近隣の根河原瓦窯とともに本遺跡への瓦の供給を担っていたほか、下野薬師寺・多功遺跡・国分寺等主に河内郡内の施設に瓦の供給をおこなっていました。
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