9.遺跡の歴史的・文化財的位置づけ
遺跡の歴史的・文化財的位置づけ
上神主・茂原官衙遺跡の歴史的・文化財的位置づけをまとめると以下のようになります。
郡衙の一典型
長方形の大規模な区画に、正倉[しょうそう]・政庁[せいちょう]及び関連建物群等の施設が一体的に整備されており、古代郡衙の一つの典型的な姿を伝えるものとして重要です。
直結する東山道
東山道[とうさんどう]は都と東北地方を結ぶ幹線道路として、古代国家にとって重要であり、直線的に敷設されることが多いです。それにも係らず、取り付くように敷設されているということは、本遺跡が地方役所としてこれに深く係っていたことを意味します。
豊富な人名文字瓦
正倉域の大型瓦葺建物跡から、約2,300点もの人名を主体とした文字瓦が出土している。瓦に刻まれた人名は、建物の建設にあたり、費用や労役を負担した下野国河内郡内の戸主層と考えられ、律令制下の負担貢納の形態を示すととともに、当時の河内郡の人名を伝える貴重な資料です。
移り変わる官衙
本遺跡は前半と後半で大きく様相がかわります。7世紀後葉代の創始時には、政庁・正倉・北方建物群が一体的に整備され、8世紀中葉になると、政庁と北方建物群がなくなり、大型瓦葺建物を中心とした正倉のみとなり、9世紀前葉には、大型瓦葺建物もなくなり、正倉機能も縮小していくとの変遷がとらえられます。この変遷には河内郡内に所在する西下谷田遺跡と多功遺跡が密接に関連していることがわかっています。
成立に関しては、先行して成立した西下谷田遺跡との関係で捉えられます。本遺跡の前半の正門は西門ですが、これは西800mに所在する西下谷田遺跡を意識して設置されたことは明らかです。このことからも本遺跡が西下谷田遺跡との関連で設置され、機能を充実・発展させたものであると考えられます。また、8世紀中ごろにおける政庁の消滅に関しても、本遺跡よりも長く10世紀まで存続する多功遺跡への政庁機能の移転と考えられます。
以上のように本遺跡では、機能の変遷とともに、同一郡内における郡衙の変遷を負うことができる、全国的にも貴重な遺跡であるといえます。