1.上神主・茂原官衙遺跡はどんな遺跡?
上神主・茂原官衙遺跡はどんな遺跡?
上神主・茂原官衙遺跡[かみこうぬし・もばらかんがいせき]は、宇都宮市茂原町と上三川町上神主にまたがる遺跡です。この場所は、奈良時代頃の人名を刻んだ瓦が多く出土することから、長い間古代の寺院跡と考えられていました。平成7(1995)年から行われた発掘調査の結果、7世紀後半から9世紀にかけて営まれた古代の役所(官衙)跡であることが明らかになり、平成15(2003)年8月27日に国の史跡に指定されました。現在、宇都宮市と上三川町の両市町合同で遺跡の保存整備に向け取り組んでいます。
遺跡全体は堀と塀のようなもので囲まれており、その規模は東西約250m、南北約400mと推定され、面積は約10ヘクタールにも及びます。堀立柱建物跡を中心に竪穴建物跡や礎石瓦葺建物跡など、あわせて90棟を越える多数の建物跡が確認されています。様々な儀式や郡内行政の実務などが行われた場所と考えられる政庁[せいちょう]や、租税として徴収された米(籾)などを保管する正倉[しょうそう]と呼ばれる多数の倉庫が規則正しく建てられていました。また、東山道[とうさんどう]が遺跡の南東側に取り付くように確認されているほか、当時の河内郡内に居住した人々と考えられる人名が刻まれた文字瓦が約2,300点ほど出土しています。
本遺跡は、政庁・正倉といった官衙の施設が一体的に確認されたほか、遺跡に取り付く推定東山道や大量の人名文字瓦など、他の官衙遺跡には見られない特徴を多く持ち、全国的に見ても大変重要な遺跡です。
- 遺構配置図
- 政庁正殿跡(左)と大型瓦葺礎石建物跡(右)の調査時の様子
遺跡の位置と地形
この遺跡は、宇都宮市の南端及び上三川町の北西端に位置しています。関東平野の北部にあたるこの場所は標高約80mの台地上にあり、遺跡の東側には田川の低地が広がっています。
- 史跡指定範囲
古代の役所「官衙」とは?
大化の改新後の日本では、中央集権的な国家体制づくりのため、全国を五畿七道に分け、各地に「国」をおきました。また、国の下に「郡(評)」「里(郷)」をおきました。国には「国司」[こくし]、郡には「郡司」[ぐんじ]、里には「里長/郷長」[りちょう/ごうちょう]が任命され、それぞれの地方の行政組織を代表し、租税徴収などの業務にあたりました。
国司は中央から諸国に派遣されましたが、その国司が業務にあたる拠点としたのが今の県庁に相当する「国府/国衙」[こくふ/こくが]です。また、地方豪族が任命される郡司が拠点としたのが今の市役所や町役場に相当する「郡衙/郡家」[ぐんが/ぐうけ]で、国府や郡家が古代の地方の役所として中央集権国家の基礎を担っていました。
現在の栃木県にあたる「下野国」[しもつけのくに]は東山道[とうさんどう]に区分され、足利[あしかが]、梁田[やなだ]、安蘇[あそ]、都賀[つが]、寒川[さむかわ]、河内[かわち]、芳賀[はが]、塩屋[しおや]、那須[なす]の9つの郡に分かれていました。下野国の国府は現在の栃木市田村町にあったことが分かっており、それぞれの郡にも郡家がおかれていたと考えられます。
「郡衙」のしくみ
郡内の統治拠点となる群家には、多くの建物が建てられていました。長元3(1030)年の「上野国交替実録帳」[こうずけのくにこうたいじつろくちょう]には、郡家の施設として「郡庁」「正倉」「館」「厨」の文字が見られます。- 「郡庁/政庁」[ぐんちょう/せいちょう]・・・郡司が政務や儀式を行う場。木簡等の文書の収受や作成を通して、中央と地方、さらには郡内の民衆への情報の伝達を行ったり、正殿や広場において公的な儀式や宴会を行ったりしました。
- 「正倉」[しょうそう]・・・租税として徴収した穀稲[こくとう](稲籾)や穎稲[えいとう](稲穂)などを収納する倉庫です。
- 「館」[たち]・・・郡司の宿舎や巡行している役人の宿泊施設です。
- 「厨」[くりや]・・・郡家で働く人々に行われていた給食の供給所です。